レイニーデイピンク



「ふあぁ……」


少しぬるめの風が、頬を撫でる。
僕の口から放たれた欠伸が、薄暗い曇り空に溶けた。


「春…だなぁ…」


今日は早上がり。のんびりと帰り道を辿る僕の目には、
少しずつ花を咲かせ始めた桜の木々が映る。

満開の桜の下、二人と一匹でお散歩…なんてのも良いよね。
眠気の覚めやらぬ頭の中で、その光景を想い描く。



ポツ。



「…あ……雨…?」


空から急に、いくつかの水滴が零れはじめた。
初めは静かに落ちていたそれは、段々勢いを増して道行く人に降り注ぐ。

僕を除いた人達は、手元に備えてあった傘を開いていた。
そして僕はというと…


「あわっ…か 傘、忘れちゃった…!」


今朝の天気予報を信じて準備していた傘を、
しっかりと会社に忘れてしまった。


「もう…僕のバカ!」


そう心の中で呟いて、鞄を頭に乗せて走り出した。

ししゃもとはなちゃんの居る、あの場所まで。



「ね、ししゃもちゃん。
雨の日に咲く花って何だか分かる?」

「うーなん?」


雨。湿気で曇ったガラスを拭きながら、
足元の鉢に落ち着いているししゃもちゃんに訊ねた。


「それはね…ほら、これ」


ピンク色の傘を開いて、ししゃもちゃんの傍に置いてあげる。


「にゃん!」


その傘は、降り注ぐ雨粒からししゃもちゃんを守ってくれる。


ぱた、ぱた。


傘の上、水滴の弾ける音が不思議なのかしら。
ししゃもちゃんは、じっとピンク色の低い空を見上げている。

―雨の日は、色とりどりの傘が道という道に咲く。
いつもと違う、暗い空の代わりに、カラフルな地面が出来上がる。
カラッと晴れた日が、気持ち良くて好き。
だけど、こんな景色も、私はちょっと好きだったりする。

いつもと何か、違う事が有りそうな気がして。



鼻歌を歌いながら窓の曇りを拭いていると、
重い色に変わってるスーツ…走ってくる佐藤さんの姿が見えた。


傘も、ささないままに。



花屋さんの軒下に飛び込んだ時は、もうずぶ濡れ。
窓拭きをしていたはなちゃんが、目を丸くしていた。


「だっ…大丈夫ですか、佐藤さん?」

「うん、会社に傘忘れちゃってね…ドジしちゃった」


後から後から滴り落ちてくる雨粒を払い落としながら、苦笑いする。
そうですか、と言うけど、顔はとても心配そうだった。

本当に大丈夫だから。
言って、受け取ったタオルで濡れた髪の毛を拭く。


「濡れてると風邪ひいちゃいますよ。
タオルなんかじゃ全然足りないですよね……」


うーん…と、悩んだ顔をする。

彼女が真剣に考えてる時に、ちょっと不謹慎かもしれないけれど
こういう顔も可愛らしいと思う。
タオルを動かす手を止め、はなちゃんの様子を見ていた。

滴る水が、また僕の顔を濡らしているのを気にも留めないで。



「そうだ!」


と言って佐藤さんの方を向くと、
何故かとてもにこやかな表情で私を見つめていた。
柔らかい笑みは、真っすぐに私を射止めていて、
急に恥ずかしいやら嬉しいやら…そんな気持ちになった。


「なっ…な なんですか?」

「んーん、何でもないよ」


くすくすと小さな声をたてて笑う。
間違いなく笑われているのは私なのに、何かを言い返す事ができなかった。

その笑顔に見とれていたから。
なんて言えないけど。


「うぅー……っ ああ あのですね!
もう私、今日は終わりですから、いっ…いっ……い…」

「い?」


この笑顔に翻弄されなければ、普通に言えたハズの言葉。
喉の奥に引っかかって、その言葉が出て来ない。
きっと、何も恥ずかしい事じゃないハズなんだけど…

あとちょっと、あとちょっとの勇気。
ちらりとししゃもちゃんを見ると、その目と私の目が合った。


「にゃーん」


「頑張れ」って、言ってるの?
…うん、ししゃもちゃん。


「いっ……一緒に、私の家に行きませんか!?」


心臓まで一緒に飛び出てしまいそうな程、勢いよく吐き出した言葉。

佐藤さん、あなたは…応えてくれる?
私の、精一杯の勇気に。


真っ赤な顔して、一生懸命に投げかけてくれた言葉。


「ああーっ!ほらっほらっ!そのっ!
服とか乾かさないと風邪ひいちゃったりしちゃって大変ですしっ!
わっ私の家すぐそこに有るんですしっ!」


手をばたばたと振りながら、必死に弁明する。
はなちゃんが何を考えてたのかは分からないけど、
どんな意味があっても僕は素直に嬉しかった。


「でも、お邪魔しちゃって迷惑にならないかな?」

「ええっお邪魔なんかじゃないですよ!
佐藤さんがお邪魔になるわけないじゃないですか!」


―ちらりと、窓の外を見る。
相変わらず雨は音を立てて降り落ち、止む気配はなさそうだった。


「うん…じゃあ、服が乾くまでお邪魔しようかな。
帰りも止んでなかったら、傘、貸してくれる?」

「は はい!ありがとうございます!」


顔いっぱいに溢れる笑顔。
ありがとうって言わなくちゃいけないのは、僕の方なんだけどね。



ししゃもちゃんに貸していた、ピンク色の傘。
佐藤さんがそれを持って、
ししゃもちゃんを抱っこした私がその中に入ってて。

これはいわゆる、相合い傘?
嬉しい。

…なんて言ったら、佐藤さんはどんな顔をするかしら?


「止まないね、雨」

「そうですね」


家に着く。
春。だけど、雨はやっぱり冷たいもの。
全身濡れて冷えてしまっている佐藤さんのために、ストーブを点ける。
暖かい色の光が、部屋の中に灯った。


「このハンガー、使って良い?」

「はい。乾かしてる間、寒いですよね?毛布どうぞ」


ありがとう、と言って、佐藤さんは毛布を受け取る。
ストーブが点いてても、半分裸じゃ寒いだろうし。
何より私が目のやり場に困っちゃうもんね…


「ありがとうね、はなちゃん」

「気にしないで下さい。それより、風邪には気を付けて下さいね」


温かいお茶を二つ置いて、佐藤さんに言った。
毛布の傍で、ししゃもちゃんは丸くなって寝息をたてている。


―大好きな人と二人きり、幸せな時間。
でも、この時間もすぐに過ぎちゃう。

時間が、止まっちゃえば良いのにな。ずーっと、このまま…



取り留めのない話をするうちに、濡れていた服もすっかり乾いた。
太陽も傾いて、そろそろ帰る時間がきたみたい。

壁に掛けられた時計の針を見る。


「…かえっ……ちゃうの?」


僕は聞き逃さなかった。
蚊の羽音のような、小さな呟きを。

…でも、明日も僕は仕事だから……


「…うん……」


僕自身が放った言葉に、胸が軋む。
それでも僕は、服を受け取って着替える。
その間、はなちゃんは何も言わなかった。
まだ、丸くなっているししゃもの背中を撫でるだけで。


「あっ あの…玄関、まで送ります…」


ししゃもを起こし抱き上げて、玄関へ向かう。


「ごめんね、また明日…」


寂しそうな顔をしたはなちゃんの頭を、そっと撫でる。
俯いたまま、小さく頷いた。

窓の外を見る。
雨はいつの間にか止んでいて、少し雲の切れ間が見えていた。


靴を、履く。


「あの………!」



僕の後ろから響いたのは、小さくて、泣きだしそうな声。




…言っちゃダメ。でも、行っちゃダメ。


「かえ…ら…ないで……」


言葉。小さく、小さく零した。つもり。

ワガママなんて言っちゃいけない。
そんな事、十分すぎるほど分かってた。

…でも、なんだか無性に寂しくて。
気が付くと私は、靴を履いたばかりの佐藤さんを呼び止めていた。


「……!ご ごめんなさい!やっぱり何でもないです!」

「……はなちゃん…?」


明日も同じ時間に会えるのよ。
ししゃもちゃんと佐藤さんは、いつも私に会いに来てくれるじゃない。

そう、自分に言い聞かせた。
背中を向ける佐藤さんを見たくなくて、瞼はきゅっと閉じた。


「…ししゃも、ちょっとごめんね」

「にゃっ」


そう、聞こえたの。


そのすぐ後に、優しく頬を撫でる春風。
暖かく濡れた花びらが、私の唇と重なった。


「はなちゃん」

「……は、い」




「もうちょっとだけ、一緒に居てもいい?」






まだ少し、薄く曇っている窓ガラスの向こう側。
枝から落ちた雫にしっとりと濡れている、柔らかく膨らんだつぼみ。

微かに揺れる、咲いて間もない淡いピンク色の花。
灰色の隙間から差し込む光、春に満ち満ちた空気。

そして、確かに感じる体温に包まれて…私、今度はそうっと瞼を閉じた。



もう少し。もう少しだけ、このままで――…



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