LOVE IS ORANGE
今日も
あの人はライフルを握ってる
LOVE IS ORANGE
日本の冬と云うのはこんなものだったかしら。
そう思いながら生地をケーキ型に流し込んでゆく。
今日は古本屋の仕事もお休み。
でも特に予定もなかったから、こうしていきあたりばったりでケーキなんかを焼いている。
使おうと思って買ったけど、
結局棚の隅っこでお蔵入りになっていたオレンジピール。
それを刻んで生地に混ぜ込んだ。
さぞかしいい香りがするだろうと、期待しながら熱したオーブンに生地を入れる。
デコレーションは何にしようかしら。
オレンジにはチョコが合うけど、でも確か今はなかった筈だ。
ほんの数秒思案して、私は冷蔵庫のドアを開ける。ドアポケットにすっぽり収まる小さな生クリームの紙パックを取り出して、ボウルに流し込む。
氷を作るのを忘れていたから、泡立て器を片手に、仕方なくガスストーブを切った。
砂糖を出して、適当に目分量で生クリームに放り込んでいく。
こういう、静かな時間は本当に楽しい。
裸足の足が寒かったけど、ひきかえにしてあげることにした。
ラジオからはハードシャンソンが流れている。
今日は風が強い。
まったくの唐突に呼び鈴が鳴って、私は不意をつかれそうになった。
二分立てにもなっていない生クリームのボウルを置いて玄関へと向かい、チェーンを外さずに鍵を開ける。
そうしろ、と云ったのは彼だった。
そうしろ、とだけ云って、理由は教えてくれなかった。
気遣ってると思われたくなかったのかしら。
なんとなく思い出し笑いをしながらドアを開ける。
「……」
チェーン分のドアの隙間から見えたのは、そうしろ、と云った本人。
「…どうしたの?」
チェーンを外してドアを開けつつ、びっくりしながら訊いた。
彼との身長差と彼が被っている帽子のせいで、その表情があまり判らない。
彼は俯いたまま、部屋に入ろうともしなかった。
「ケイ?」
訊きながら、どこかで判っていた。
今日に限って連絡もなしに部屋に押しかけてくるのも、
虚ろにも見える視線でいる理由も。
タイミングも判っている、あとコンマ何秒できっと。
案の定、部屋に踏み込んだ彼は私を強く抱きしめた。
ドアが閉まる頃にはもう唇付けられていて、彼のその唇はどこか乾いている。
いつもこうだ。
明確にして彼は云わないけれど、彼の顔とか体はひどく正直だったから、
きっと今日もそうなんでしょうね。
唇が離れて、彼の顔が遠ざかる。
私の肩を抱く手は心なしか震えていたから、間違いないんだと思う。
今日も人を殺してきたんだわ。
「寒かったでしょ」
彼の手は、今さっき殺してきたであろう人に、道連れにされたみたいな温度だった。
かじかんで思うように動かないその骨ばった手を、頬に寄せてそっと微笑んでみる。
「…ベル」
掠れた低い声が呼んだ。
怯えた子供のような目でこっちを見ている。
いつだってそうだ、いつだって彼は恐れている。
自分が人を殺して生きてることもそうだし、平穏な暮らしの儚さに対してもそう。
「なあに?」
そう云ってもう一度微笑む。
それ以上は必要ないとばかりに、今度は私の方から唇付けた。
ラジオからはハードシャンソンが流れてる。
ストーブを切っておいてよかったかもしれない。
寒いから、きっと体温が際立つ。
それは私のためではなく、概ね彼のため。
彼は人を殺しているけれど、その実感はひどく薄いのだと、私は思う。
彼はスナイパーだから、極端な話、人差し指を引くだけで、人を殺せてしまう。
スコープ越しに見る、標的の死に様、と云うものは、あまり彼に、人殺しの実感を与えないのかもしれない。
そして報告して、あとは報酬をもらって終わり。
それで何の滞りも無く仕事は終わって、彼の口座には報酬が振り込まれ、日々の糧を得る。
「人を殺し」て、「糧を得」る。
その二つの事実が結びつくには、あまりにも実感が薄すぎるのだと思う。
そうなるには、彼にとってライフルの銃爪は、あまりにも軽すぎ、そしてあまりにも冷たすぎるのだと思う。
ギャップが生み出した空虚の広さは、私には解らない。
でも、それでも足掻いて体温を欲しがる彼は、この上なく人らしいと思う。
矛盾しているとも。
そんな彼を、愛さずにはいられない自分も、
こうして求めてくる彼を受け入れずには居られない、受け入れたいと思っている自分もまた、矛盾しているだろうか。
答えなんてどこにもない。
私も彼も、そんなもの最初から求めてなんかいなかった。
ゆっくりと侵入してくる彼に息を詰まらせ、必死になりながら彼の背に腕を回す。
奥まで届くと、彼は私の髪を梳き、触れるだけのキスをして、それから動いた。
ラジオからはハードシャンソンが流れてる。
破滅的なメロディで、
私の国の言葉が、
もう戻らない過去を歌って嘆いてる。
オーブンからはオレンジの強い香りがしてる。
破滅的な色だと誰かが云ってた。
その色をした香りが、
部屋に充満していく。
風が強くて、
時々窓枠が不穏に動いて、
彼が動くたび、
悲鳴にも似た声が漏れる。
「ベル」
その声に顔を上げると、クセのある茶髪の隙間から覗く目と視線が絡んだ。
涙に濡れた、栗色の瞳。
とても人殺しの目だとは思えないような。
それに見入っていると額に淡く唇付けられて、途端、彼は急にその動きを増す。
こらえ切れなくなって、喉を仰け反らせて叫ぶように喘いだ。
ラジオからはハードシャンソンが流れてる。
部屋にはオレンジの香りが充満してる。
破滅的なメロディと破滅的な香りが、
私達を頂点へと引きずってゆくような気さえしていた。
彼がシャワーを浴びている間、
私はシャツを一枚だけ羽織って、生クリームを泡立てていた。
久しぶりに使ったオーブンはどうやらタイマーが壊れていたらしく、スポンジの表面は見事にこげ茶色だった。
粗熱を冷ましている間に、クリームは八分立て。
よく考えたらスポンジに挟むような果物もナッツもなくて、しかたなく、そのまま適当な大きさに切り分ける。
見た目が見た目だからちょっと心配したけど、切ってみたら全然そんなことはなくて、安心した。
断面から見えるオレンジは、やっぱりきれい。
バスルームから出てきた彼は私の格好を見て何か云いたげだったけど、
何も云わずにソファーの上にあぐらをかいた。
そういう格好をさせたのは自分――そうやって一人で勝手に負い目を負うのは、彼の悪い癖だ。
とりあえず二人分の紅茶を淹れてから、ベッドにかけたままだったスカートを穿く。
「はい」
無骨なくせに繊細な手に手渡すマグカップには、湯気を昇らせる紅茶と砂糖を一つだけ。
彼の髪は、まだ少し水滴が滴っていた。
「食べる?」
そう云って、切り分けたスポンジに生クリームを添えた皿を目の前に出すと、
彼はそれと私の顔を交互に見比べた。
「今日何の日だ」
「何の日でもないわよ。ただ焼いてみただけ」
苦笑しながらそう云って、もう一度意思確認をすると、
彼はまだ腑に落ちないような顔で皿を受け取る。
フォークを手渡してから、自分の分と紅茶をテーブルに置いて、彼の隣に座る。
紅茶で口を潤してから、スポンジを口に含んだ。
オレンジの香りがひどくしている。
「うまいな」
彼がぽつりと云った。
悪びれる様子もなく、スポンジを黙々と食べている。
「そうね」
ほんの少し、身を寄せて云った。
ラジオからは別の曲が流れてる。
破滅的なメロディも、何処吹く風のように。