口の周りを拭おうとすると手の方も手首まで濡れていて、上手く拭けずに往生した。
 空が手渡されたゴムを着けるまでの間、硝子は慎ましく向こうを向いていた。一度息を整え、
「力、抜いて」
 きゅっと硝子は空の腕を掴み、顔を背ける。目を閉じずに、それでも唇を噛んでいる横顔はうち萎れた花のようで美しかった。
 軽く腰を進めると伸び上がるようにする。入り口は一度蕩けてもまだ、生硬に閉じているようだ。
(もしかして)
 その段になってやっと、空はある事に気付く。何故今まで気付かなかったのか、と自分を殴ってやりたくなった。
「――硝」
「なに……?」
 何かいけない事でもしてしまったのか、それとも、と怯える相手に、彼は出来るだけ優しい顔を作る。
「……はじめて?」
「――!」
 かっと頬が赤く染まる。
「な、なんで……」
「勘。……そっか」
 耳まで染まったのを見下ろして、空は少し笑った。からかったのではない。死んだようになって、これまでほとんど無表情だった少女が感情を露にしたのが、何だか嬉しかったのだ。
 だが相手が初めてとなると、話はだいぶ変わってくる。女にとって、男のそれとはかなり違う意味があったはずだ。
 今なら止められる。ここで引き返すのは正直惜しいけれど、やって、やれない事はない。
「本当にいいの、それで? ……相手が、僕なんかでも」
 口に出すと腕に掛かる力が増えた。
「――嫌だったら、頼んでない」
 聞き間違えようのない明確さで言い切り、硝子は頭を振ってみせる。
「わたしは、かまわないの」
 そうか、と空は少し笑った。髪を撫でる。
「ごめんね」
「え……」
「優しく出来なかったら、ごめん」
「……ううん」
 自然と互いの手が重なり、握り締め合う。力が掛かるのと時を同じくして、彼は中に押し入った。
「んぅッ……!」
 それは慎重な進入だった。下敷きにした体は薄くて、体重などかけたらその瞬間に粉々に砕けそうだったからだ。
 しかし、それはあくまで空にとっての話だった。彼の掌には痺れが走る。指先が白くなるほどの強い力で手が握られたのだ。
 胸の下で上体が仰け反り、眉が急角度に寄せられる。ひどい痛みを与えているだろうとは想像に難くない。
 一番太いところが狭いところを潜り抜ければ、その勢いのまま奥を突く形になった。ひっ、としゃくり上げるような声が、くっ、と凝った息が、互いに零れた。
「――硝、大丈夫?」
 最深まで自身を埋めて、息を詰めながら少年は訊いた。さすがにきつく目を閉じてしまっている少女の、汗を含んで重くなった前髪を梳いてやる。
 硝子が歯を食いしばって無言で頷き、空はそっと頭をかき抱いた。速い熱い息が肩口に掛かる。
 粘膜が直に触れ合って、それは眩暈のするような感覚だった。まともに目を開けていられない。甘く重く、急所を曝け出している事による僅かな緊張感と、その一番弱い所を少々痛いくらいきちきちに、濡れたものに包まれる快感。
 生温いそこは自分と少女との境界が判然としない。体温と同じ温度の風呂に浸かった時のようで、自分の器官が延長されたような感じだ。溶けて一つになる、というのはこんな事か、と思う。
 無理に動かなくても頬がそそけ立つほど気持ちがよく、一方で組み敷いた相手が苦しがっているばかりなのが申し訳なくて、彼はそのまま動かずにいた。
「動いても大丈夫になったら、言って?」

「まだ、ダメ、」
「わかってる」
快感に朦朧と目を閉じていると、つと向こうから手が伸びて、空の頬に触れた。思わず肩が跳ねる。
 手は下りて行き、目の見えない人がそうして人の相貌を知るように、彼女は少年の鼻筋をなぞり、唇を辿る。
 そうして空自身も知らぬ間に頤まで落ちていた汗を掬って、何事か硝子は呟いた。
「――う」
 薄い掌がぴたりと、彼の頬を包んだ。空は若干の驚きをもって少女を見下ろす。
 行為が始まってからこの方、阻む事こそしなかったものの、硝子の方から空に触ってくる事はなかった。縋るように腕や肩を掴まれたが、それだけ。
 今が初めてだ。初めて、幼馴染の方から意思を持って触れてきている。
「なに……?」
 ぎゅうっと強く握りこまれるとそれだけで行ってしまいそうになる。気を逸らすつもりで、空は先ほど聞き逃した言葉を訊いた。
 硝子は一度息をつき、微笑んだ。やはり今までのどこか虚ろな、口元だけ、目元だけのものではなかった。
 未だ震えながらも刷毛でさっと掃いたように全身に仄かな朱を上らせて、笑顔で、言う。今まで見た事のない不思議な表情だった。
「――ありがとう」 
 頼まれてした事なのに滑稽だ、とは思わない。むしろ空はやっと硝子が笑ったのに安心した。
 そうしてその顔に、どういう訳か胸の奥を掴まれるような苦しさを覚えて、混乱する。
 ――いったい、どうして。
「たいした事、ない」
 狼狽えれば硝子は首を横に振った。
「それでも……」
 程なくしてもう大丈夫、と視線を外し、相手は握った手に力を込めてきた。頷き、会話が途切れたのに安心しつつ、彼は内壁を広げるように動き始める。
 腰骨を擦りつける動きは緩く、単調で静かだ。だが時折漏れるくぷ、くち、と湿り篭った音が、卑猥でたまらない。
 その音がだんだん、くちゃくちゃ、ちゃぷちゃぷ、と汁気を帯びていく。少女のしかめた顔に、苦痛以外の相が浮かび上がる。
 痛みに一度は引いた汗が再び薄く噴き出して、合わさる肌にしっとりと潤いを与えていく。好きに動いて、と、硝子が懇願したのはそんな時だった。
「そらくん、だめ……っ、きもちよく、しないで、ェッ……!」
 酷くして、痛くして。わたしを痛めつけて。
 驚いて少年は彼女の顔を見た。自虐的な言葉がどうして今になって出てくるのか、分からなかった。
 思わず聞き返す。
「どうして」
「どうして、ってッ……そんなの、」
 その答えで空は全てを見抜いた。かっと頬に血が上り、腹の中へは冷えたものが走る。
「――嫌だよ」
 この期に及んでまた、彼女の癖が出ていたのだ。
 痛みでもって自分を罰そうというその考えが、彼には手に取るように分かる。
 一時でも恋の相手を忘れたい。でもまだ彼を愛しているから、他の相手に抱かれるのはいけない事だ。
 それでも忘れたい。だから、裂ける苦しさが、自身への罰だという。そういう考え方をするのが硝子だった。空は良く知っていた。――ずっとそれに付き合ってきたのだから。
(とんでもない)
 他の時なら許せたかもしれない。成就が叶わないと知った上での愛情なら、空が文句を言う謂れはない。
 だが今だけは我慢がならなかった。それは自分への侮辱だ。その思考が気に食わない。
 そうして、それでは何のために硝子を抱くのか分からない。放っていてはきっとまた、同じ事で彼女が悩む破目になる。
「覚悟、してね?」
 怒りがそれまでの陶酔を駆逐した。空は華奢な片膝を胴に付くほど抱え込む。体重を掛けて圧しかかり、揺さぶる。自分にある事も知らなかった凶暴な衝動が、背徳的に心地よい。
「アっ、あ、ア――」
 恥骨の軋む痛みに、少女の声が裏返る。遠慮なくぐりぐりと食い込んでくる相手の骨に、悲鳴を上げる。

 一見要望に従った荒々しい律動のようだが、その実硝子が受けるのは苦痛よりもむしろ快楽だった。
 柔らかい奥底に自身を押し付け、刺して、それでも空は一点で冷静に少女を見定めた。どこがいいのか、どこを突けば快くなるのか。
 先程見せたあの笑顔が、早く彼女に戻るように。
「く、あッ、」
 やがて中の動きが変質し始める。ただゆるゆると滑らかだった、それだけだった壁が、ぬるりぬるりと蠢き、搾り出すような動きを見せる。
 自身だけではなく全身を擦り寄せれば、赤く尖った乳首が彼の胸でこすれて、硝子が泣いた。
「ひあ、あッ、あんッ、ア、お、おかしく、なっちゃ――」
「――なって」
 彼女は自分に忘れさせてと頼んだのだから。
 瞳はうつろに、言葉は意味を成さなくなり、少女は自身の感覚だけで破裂しそうになっている。それを与えているのが自分だという事が満足感を呼び、嬉しい。
 シート越しに潰れた草や雨の匂いを、蒸し出された甘い匂いが圧倒している。湿る夜気の冷たさや、どこかで鳴く虫の音が、遠い。
 抜き差しを繰り返す下腹に、空はふと温いものを感じる。思わず視線を落とした。
 間接的な懐中電灯と満月ではない月明かりでは何が見える訳でもない。まして自分達の体で陰になる箇所だ。真っ暗で色彩の区別も付きはしなかった。
 だがそこに赤いものを見つけたような気が、した。
(――!)
 尾てい骨から背骨、首の後ろ、脳まで空の全身を、冷たさが駆け上る。喜びとも恐れともつかない、不思議な感情だった。
 この子を初めて犯しているのは自分なのだと、改めて少年は実感した。似つかわしくない事だが、それは一種厳格な心持ちだった。
 何か枷をかけられたようだが、全く苦しくない。むしろそれが――喜ばしい。
(全然、そんなんじゃないのに)
 彼は心中で苦笑した。これが終わればまたいつもの、疎遠になった幼馴染の二人だ。硝子はまだ彼氏の事が好きで、自分も星気違いで女っ気の欠片もない高三に戻る。
 互いにあるのは友情だけ、それだけだ。長い付き合いで家族のようになっているが、それだけの。
(――今だけは)
 今だけでいい。繋がっている今だけは、恋人同士だ。
 至った考えに、そして感じた一抹の寂しさにやや愕然としながら、それでもいい、と空は思う。
 今だけは恋人だ。だから初めてがこの子相手でも、おかしくない。
 義務ではない。自分がしたいから。妹のように愛しいから。今だけはこうやって慈しみ苛めて、苦しい思いをその心から消し去ってやれる。
「ん、くっ……」
「あ、……ッ?」
 埋めた自身に蕩けるような疼きが走って、思わず彼は呻いた。その息は荒い。拭う暇も余裕もなく、汗が額から顎へ伝い、真下の裸の胸に落ちる。
 その感触に硝子が陶然と目を開ける。眉宇から愁いが消えて久しい。潤んだ目を瞬かせて、空の首にしがみついた。
「ゥ、んっ、わたし、わたし……!」
「わかって、るっ」
 限界が近かった。硝子もそうなのだろう。気遣いはとっくに消えていて、空はただ引き抜き、打ち付ける。
 薄い下腹を抉る動きが弱い一点を擦り上げ、びん、と内壁が締まる。そのままきゅうっと最大の収縮が、来た。
「あ、や、んぁ、やぁああッ、そら、くッ――!」
「――うーっ……!」
 全身をぶるぶると痙攣させ、喉を晒し、爪を空の背に食い込ませ目をきつく瞑って、彼より僅かに早く硝子が小さく叫ぶ。
 敏感になった先端から液が溢れる。痺れが小波のように尻から下半身へと走り抜け、次いで虚脱の第二波が駆ける。目頭から首の後ろへと、さあっと冷たい波が走っていった。
 どっと雪崩れ落ち流れる感覚。ちりちりした痛みと共に、粘るものが自分でするいつもよりも多く放出されていく。引き攣った内腿と腹が、それを迎えるのを感じた。
「はあっ……」
 ――終わった。
 どちらからともなく息をつく。長く最後まで吐き出した後に身震いして、空は自身を引き抜いた。全身の筋肉が、急に重く感じられてたまらない。
 若干の気恥ずかしさを感じながらゴムの始末をした。溢れる薄桃色のぬめりを拭って、硝子の隣に寝転ぶ。気怠さに任せ、正体をなくした細い体の上に倒れ込みそうになるのを抑えての結果だった。
 もう事は終わったのだ。自分は彼女の想い人でも何でもなく、ただの幼馴染だった。

 ――願い続けるよ 今 僕が見つけた小さな恋は 人知れず大きくなる――
「ソラ兄!」
 女の子顔負けのボーイソプラノで堂々と歌い上げて満場の拍手を貰い、手を振ってさらに沢山の喝采を貰ってからステージを降りた幼馴染に空は合図を送った。そのままこちらに辿りつくのを待つ。
 人の海にもみくちゃにされて、赤い14のゼッケンの上下はよれよれになっている。近づくとぷんと汗の臭いがして、空は顔をしかめた。
「翔も呼ばれてたんだ」
「こっちもびっくりだよ。ソラ兄そんな歌上手くなかったじゃん」
「言ったな」
 臭いぞ、と言い返すとだって洗っちゃいけない規則なんだよ、と翔は反論した。肩に紙吹雪が貼り付いている。
「先輩達の流した大事な汗が染み込んでるから駄目だって」
「だったらなんで会場に着てくるんだよ、迷惑じゃないか」
「ソラ兄だって望遠鏡ジャマじゃんか」
「観察に行くところを捕まったんだよ」
 あれからしばらく経ったある日、得体の知れないパーティへの招待状が空に届いた。
 歌を一曲作って来いという、蛍光色で甚だ目に優しくないそのカードを一度読んだきり、彼は放っておいた。何がしたいのかが不明で怪しすぎたのだ。
 そして仰天した。
 何日か後、なんと主催者の神様ご本人が(ホラでも何でもないから恐ろしい)直々に空の所まで説明しに来たのである。
 それでも説明は支離滅裂で、肝心の日時は追って伝えるなどとはぐらかされた。だが念押しされた以上、知らぬ存ぜぬは通らない。
 神様が告げた規則通り歌を考え、そうして忘れてしまいかけた頃に、いきなりUFOに拉致されて、空はこのホールに連れて来られたのである。
 UFOの主は地球の一家の許で暮らしている、可愛らしく友好的な宇宙人だったのでアブダクション云々は体験していない。強いて何かあったとすれば、その家族(カリスマ美容師と別の高校の生徒だ)を紹介されたぐらいか。
(結構いるんだなあ、宇宙人)
 まさか科学者永遠のロマン的な存在が隣町の平凡な一家の中で、おやつを貰って可愛がられているなんて思いもしなかった。どころかこのホールにはテレビや雑誌で見た顔がちらちら見受けられる。
 本職のミュージシャンと普通の学生とが一緒くたになって、同じように歌を披露するために集まっているのである。
 世界的に有名な指揮者やビジュアルバンドやダンサーのいる一方で、見慣れた制服の生徒や小さな子供がはしゃいでいる。俄かには信じがたい。空だって神様に会っていなければ信じはしなかっただろう。
 少しでも音楽を齧って音楽の道で生きていきたいと思っている人間なら、涙を流して喜びそうなステージだ。
 もっとも度胸満点の翔には萎縮など縁がない。でなければこうも息を弾ませて、目を輝かせているわけがなかった。
「ソラ兄はもうちょい先?」
「ううん、全然。ものすごい先だけど」
「じゃ、しょーこさんのも聞けるね。良かったあ」
 え、と空は目を見開いた。
 硝子にはあれから二週間近く、一度も会っていない。元々学校が違うから登校時間もまるで噛み合わず、会おうと思っても暇がなく、そうして、会うのが怖かった。
 ――会って何を話せばいいのか、分からなかった。
 下手に話せば今までの自分たちの事が全て、壊れてしまいそうで、怖かった。
「――硝子も、来てるの?」
 呆然と聞き返すと、童顔に怪訝な表情が浮かぶ。
「え、うん。……何、ソラ兄知らなかったの?」
「知らなかった……もしかして翔、硝の携帯の番号も知ってる?」
「知らなかったの!?」
 今度こそ大声を上げて、翔はぽかんと空を見上げてきた。
「ったって、携帯持ったの高校上がってからだし。硝は私立行ったから全然行き来がなくなって」
「信じらんない……」
 弁解するも聞き入れず、翔は呆れた顔をする。信じらんない、と繰り返して、ポケットを探った。
「今ケータイ持ってないから、しょーこさんから直接聞いてくれる?」
「いや、僕も今は……」
 言いかけて、壇上のライトが注意を喚起するように光ったのに気付く。
「あ、ほら」
 振り仰いだ先に二人の共通の幼馴染が光を浴びて、立っていた。

 彼女が歌ったのは、失恋の歌だった。
 歌詞の内容はどう聞いても振られた彼氏に縋り付くといったもので、歌の美しさに酔うより先に空は心配になる。
 上手く出来たもので、透き通る声で彼女が歌いきった直後に、ステージ掃除のための休憩が入った。
 建物の外に出て何かをするほどの時間はない。人いきれからホールの出入り口に翔と二人で避難すると、示し合わせたように硝子が現れた。
「久し振り、翔くん、空くん」
「しょーこさん!」
 お久ー、と駆け寄った翔に微笑んで、それから硝子は空に笑いかけてくる。
 その笑顔は落ち着いていた。少なくともあの金曜の昼のような、一目見て気付くほどの澱は白い顔から失せていた。
 ほんの少しだけ空はほっとする。ステージの上にいる硝子の表情がまるで窺い知れなかったから、まだ引きずっているのかと気に掛かっていたのだ。
「――久しぶり」
 そうして少女の挨拶が、この前の事は隠してくれと言っていた。淡く笑って、空は挨拶を返した。
 複雑な気分だった。
 あれほどの事が自分と彼女の間にはあったのに、今、呆気ないくらい易々と言葉を交わして、笑っている。
 自分達の今までの関係が崩れてしまいそうで怖かったのに。喋る事も笑う事も、何もなかったようにする事も、拍子抜けするほど容易い。
「元気だった?」
「――おかげ、さまで」
 ちょっと目を細めて硝子は言った。意味深な返し方にどきりとさせられる。
「空くんは、どうだった?」
「……僕も、そんなには変わりないね」
「そう。翔くんも、変わらないねえ」
「――そんなにぼくの背、伸びてない?」
 それからしばらく近況報告に終始した後に、
「あ、ねえ、翔くん。ちょっと、わたし達だけにして貰えないかな」
「えー、何で?」
「話したい事があって」
 硝子は曖昧に笑ってみせる。意識せずとも背筋が伸びたのを、空は感じた。
 だがお願い、と彼女が頭を下げて見せたのにも関わらず、翔は食いついてきた。どうして、としつこく理由を聞いてくる。
「何かあったの、しょーこさん? ……!」
 硝子の顔をじっと見つめている。だが、これは、と空が観念しかけた頃、ばね仕掛けか何かのように、ばっ、と翔は飛び退き、首を巡らした。
 二人が何の事か全く分からずにいる内に、彼は何かを見つけて脂汗までかき始める。
「うげ!」
「あー、待って!」
 顔を真っ青にして翔が硝子に縋りついた。幼馴染の膝は完全に笑い、目は泳いでいる。何だろうと空は辺りを見回し、それを見つけた。
 大勢の目の前で歌った時も平気だった翔がここまで怯える、その原因が、転がるようにして駆けて来たのだ。
「待って、ハリー!」
 ピンクのTシャツにお下げ髪の女の子と、早くも脱色された金髪の気弱そうな男の子が目に付くが、翔の怖がっているのは子供ではない。
 彼らの追いかける、小さな毛玉の方である。わん、と吠えた声を聞いて、ますます後輩は後ずさった。
「あー、来んな、来んな来んなヤだヤだヤだッ!」
 一匹の子犬だ。それもぱっと抱き上げてしまえる程度の小さい犬だった。
 だが翔は硝子の後ろに隠れ、さらには空にしがみついて来る。その力たるや溺れかけた人間のようだ。

 彼は犬が嫌いだ。嫌いだし、怖いのである。なのにどうしてか、大抵犬の方は翔に懐く。今回も例外ではない。
 赤ゼッケン目がけてまっしぐらに駆けて来るハリーはテリアだ。つぶらな目と髭や眉のような口元目元の毛並みが、老人のようで可愛い。
 縫いぐるみめいていて空も可愛いと思うのだが、犬全部が駄目な翔はひたすら蛇に睨まれた蛙のように嫌がる。そうして今も、足が竦んだところを子犬に飛びつかれて、尻餅をついた。
「ぎゃーッ」
 目を回した相手の事など頓着せず、当のハリーはゼッケンの胸に馬乗りになった。ふんふんと鼻を鳴らして嗅ぎまわり、ぺろぺろと翔の顔を舐め回している。
 やっと追いついてきた子供二人がリードを引いても離れようとしない。千切れんばかりに短い尻尾を振っている。
「こら、ハリー、ふせ!」
 飼い主の方らしい男の子が言ってもテリア犬は聞き入れない。さすがに翔が可哀想になって、空は子犬を抱き上げた。もがくがそこは小型犬、楽に引き離すことが出来る。
「はい」
 バスケットボールと同じか一回り大きい程度の体なのに、どうしてこうも犬の方は怖がるのか不思議だ。
「あ、ありがとーございます」
 お辞儀をした女の子の腕に渡して、空は翔を呼んだ。一連の騒動に呆気に取られていた硝子も、それに続く。
 少年は目を瞑ってぐったりしていた。ぴたぴたと頬を叩いても起きない。
「ほら翔、起きて」
「翔くん、大丈夫?」
「……」
 多分すぐに目を覚ますだろう、という空の目論見は外れた。
 肩を揺すっても何をしても、弟分は目を覚まさない。脂汗までかいている。あまりの顔色の悪さに、
「おにーさん死んじゃったらどうしよう……」
 とお下げの女の子の方が泣き出してしまったほどだ。
「びっくりしてるだけだから大丈夫よ。このお兄ちゃん、昔から犬が苦手だったから」
「え、そうなの?」
「そう。だからハリーの事、ちゃんと抱っこしててね、いいかい」
「えー、ハリーかわいいのに」
「リンちゃん、ダメだって」
 口々に言う子供を笑顔を作って宥め、さてどうしよう、と空は必死に思考を巡らせた。自分の順番はこのすぐ後の回に回ってくるから、ホールに待機していなくてはならない。
 だが硝子は人のいないところで話したいと言っていたし、後回しにはしたくない。周りに人の少ない今の内でないとまずいだろう。
 そうなると残りの子供二人では翔を任せておくには不安だった。
「誰か、呼んでくる?」
「うん。……あっ、いや、」
 訊いてきた硝子に頷きかけ、それを取り消す。代わりに、
「ねえ、そこの君、T高の」
 呆然と立つ真新しいセーラーの少女を硝子の背後に見つけて、空は声をかけた。自分の高校の制服で、しかも、どこかで彼女を見かけたような気がしたのだ。
「わたし、ですか?」
 瞬き、おずおずとこちらに近づいてくる少女の学年章はやはり一年のものだった。ふわふわした栗毛を耳の後ろで二つ結びにして、丸い黒い眼は幼かった。
 顔立ちに見覚えはない。だが確かに見たのだ。どこだったろう、と空は考えながら、
「出演者の人? もうすぐ休憩が終わるから、ホールに……」
「ううん、違うんです。あの、何だか『会わせたい人がいるから』って……翔君?!」
 倒れている翔を認めて一年生が上げた素っ頓狂な声に、ハリーが耳をぴくりとさせる。
 その親しげな呼び方に、ぴんと来るものがあって、空は表情を緩めた。どこで彼女を見たかに気付いたのだ。
 あの金曜の学校の廊下だ。そこで、彼女は翔と話していた。
「――もしかしてうちのバスケ部の人? マネージャーさん?」
「あ、はい、そうです」
 裏付けを得て、空は微笑む。神様も粋な計らいをしたものだ。
「じゃあ、見ててくれないかな、翔の事。翔はもう順番終わってるから、時間は気にしなくていいよ」
「分かりました」
「それじゃ行こうか。二人も、気をつけてね」
「「はーい」」
 生真面目に頷く翔の片思いの相手を残して、四人と一匹はその場を離れた。元気に走り回る子供達の後ろ姿に自分達の小さかった頃を見て、知らず、微笑がこぼれた。

 ホールの入り口からさらに離れ、渡り廊下に出てしまえば、人気はほぼなくなった。
 ガラス張りで見通しは良くても話し声の聞こえる近くに人影はない。ソファに並んで掛けて、アイスコーヒーを渡す。
「彼と、別れてきた」
 時間がないのを分かってか、硝子は出し抜けに切り口上で告げた。
「それは……」
 人がいないのを確認したのに意味もなく周りを振り返って、空は少女を見つめた。
 二人きりになるとやはり彼女はただ懐かしく大切なばかりの幼馴染で、以前と何ら変わるところはなかった。
「――ごめん」
 反射的に謝ってしまう。相手はきょとんと目を丸くする。
「どうして?」
 問われ、逆に空は言葉に詰まってしまった。確かに空の謝罪する理由は、どこにもない。
「僕のせいなら……」
「違うよ。それはわたしの頼んだことだもの、空くんが謝ることじゃない。――そうじゃなくて、あの時ね」
 消え入った語尾に被せ、硝子は小さく言った。
「多分、もう彼のこと好きじゃなくなってた」
 空は左隣に座る相手をまじまじと見つめた。意外と穏やかな顔をしている。
「いつからだったかは、分からないよ? でも、この間、別れるために二人で話した時、前ほど辛くなかった」
 視線に気付いて、硝子は照れ臭げに、紙コップの中に視線を落とす。そこに見つからなかった答えがあるかのように。
「彼に触られても、声を聞いても、全然嬉しくも悲しくもなかったの。気持ちが全然、一枚薄い膜を通しているみたいだった。それで分かった」
 ああ、もうわたし、この人のこと好きじゃなくなったんだなあ、って。 
「――きっとね。信じるだけでいられなくなって、疑わなきゃならなくなってから、もう、純粋に好きではいられなくなっちゃったの。だからもう、終わってた」
 だから、空くんのせいじゃない。コーヒーを一気に干して、苦い、と少女はおどけて笑う。
 つられて、空は苦笑する。一番訊きたかった問いが、自然と滑り出ていた。
「一人で、大丈夫そう? もうあんな事、しない?」
 あんな風に辛さに囚われて、自棄に走る事は。
 しないよ、と硝子は即座に返してきた。
「絶対とは言い切れないけど――今、頑張ってるところだよ」
 頷いた少女が、眩しい。
 あの日は相手の顔など見られないで帰してしまったから、まともに見るのは久し振りだが、硝子は確実に変わっていた。
 儚いだけ、脆いだけだった印象は変わらない。今もか弱い風情のままだが、ぴんと一本の強靭な弦が内から彼女を支えて、輝かせているようだった。
「そう――なら、良かった」
「ありがとう」
 はっきりと、澄んだ声が告げた。
 聞き返そうとした空の手に、冷たい手が重なる。見つめてくる瞳は透き通って、以前よりも深い色を増していた。
「――ありがとう。あなたで、良かった」
「うん」
「全部、空くんのおかげだよ」
 そんな事ない、ともどういたしまして、とも答えるのは変な気がして、代わりに空は薄まったコーヒーを飲み干した。羨ましいのと面映いのとが複雑に入り混じっている。
 同時に、早く会場に戻れ、とアナウンスが流れてきて、思わず二人は顔を見合わせて苦笑した。
「空くん、次の回?」
「うん、そう。実はちょっと緊張してる」
「頑張ってね。翔くん達の様子見たら、行くから」
 手が離れていく。
「――後で、携帯の番号教えてよ」
「え?」
「まだ硝の、知らないから。こっちのも教える」
 立ち上がってこちらを振り返った少女は懐かしい笑顔だった。手を振られ、振り返す。
「じゃあ、また、後でね」
「また、後で」


【終】

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