ソラ×硝子


 金曜日、朝は晴れていたのに三時間目で曇り出し、五時間目にはその雲が鉛色に重く垂れ込め、HRの時間にはとうとうぽつぽつと降り出した。
(ああ、やっぱり降って来た)
 それを三階の教室の窓から見上げて、空は溜め息をついた。頭をがりがりと掻いて、机に突っ伏す。
 何度恨めしげに曇天を睨んでも天気が回復するはずもないが、それでもそうせずにはいられなかった。
(なんだよー、まったくもう。降らないって言ってたくせに)
 心中では天気予報のキャスターに悪態をつくが、空が帰るのに特に支障はない。彼の家は割に近く、置き傘もしていたから濡れる心配は要らないのだ。
 それでも空が悔しがるのには理由がある。
 悶々としているうちにやがてHRは終わり、放課となった。
(おじゃんかあ……)
 鞄と傘を持ち、空は一人階段を下りる。踊り場の窓から見た空にはやはり晴れ間などなく、雨はしのつく、と言っていいほどの量だった。
 彼は小さい頃から星を見るのが好きだった。当然のように天文部に所属し、部活動の他にも時折一人自前の望遠鏡で観察に出かける事があった。
 勿論今夜も一晩中観察する気でいた。そして今年彼は受験生で、地学以外の成績はからっきしだった。梅雨前という事もあって、今日で泊りがけの観測はしばらく控えようと思っていた矢先の、この、雨である。
「あーあ……」
 空は溜め息をついた。雨は嫌いだ。学校の中は蒸すし、異様に床が濡れて滑って、掃除の手間が掛かるようになる。何より星が見られないから、嫌いだ。
「……あ、せんぱーい」
 梅雨にはまだ早いだろ、と考えていたところに明るい声が掛かって、空は階段の下を探す。人ごみの中に、すぐに見つかった。
「翔。久し振り」
 どこか得意げににっこりして手を振ってくる。真新しい学ランの肩が余って子供子供した印象の、小柄な新一年生が声の主だった。階段を降りて並べばその細っこさが歴然と分かる。
 女の子のような優しい顔立ちだが、これでもバスケ部に所属するやんちゃぶりだ。空とは幼馴染と言うことも相俟って、くだけた口調だった。
(あれ?)
「すっごい暗いカオだよ、ソラ兄。どうしたの?」
 小・中と一緒だったのだが、早生まれも災いして、翔はいつも女子から可愛がられ構われるタイプだった。高校でもそのパターンか、早くもバスケ部マネージャー志望の一年生にタオルをかけて貰ったようだった。
 だが今回は例外だった。翔は彼女にのぼせ上がってしまったのだ。以来その子がいかに可愛くて気立てがいいかを会うたび力説する。
 それで何か手を出したのかと聞けば、今はただ視線が合うだけでどきどきしてしまうというから空は笑ってしまった。からかうつもりはない。ただそんな弟分の愛らしい恋が上手くいけばいいと願うばかりだ。
 些細な違和感を覚えたが振り払い、空は質問に答えた。
「雨が降っちゃったからさあ」
「あ、また観測?」
「そう。今日はさー、はくちょう座とか見ようと思ってたんだけどね……」
 てんびん座やヘルクレス座が天に大きく陣取っているが、七夕の星座も東に現れ始める時期だ。見られるはずだった星に思いを馳せて、はーっ、と空は息を吐く。
 一方であれ、でも、と後輩はつぶらな目を瞬かせた。ポケットから真新しい新機種の携帯を取り出しながら、
「この雨ちょっとしか降らなくて、夜には完ペキ晴れるって言ってたよ?」
「え、ホント?」
 空は顔を上げた。うん、と翔は携帯を操作する。
 見せられた液晶にはやはり、七時近くには晴れるという予報が表示されていた。
「コレ見てぼく傘持ってこなかったから、当たってないと困るんだけどねー。でも結構当たるよ? この天気予報」
「まじで?」
 弾む声を抑えられず、後輩に笑われてしまったが、嬉しいものは仕方ない。顔が自然とほころんでいるだろう事は、相手の反応でよく分かった。
「うあ、何か嬉しいかも……」
「行ってみたら? 場所取ってるんでしょ?」
 うん、と空は頷いた。朝に敷いたビニールシートは雨でぐちゃぐちゃになっているだろうが、拭く手間よりも予定が不意にならなかった喜びの方が勝っている。
 それじゃ、と気もそぞろに挨拶をすると、少し膨れた後に分かった顔でさよなら、と返ってきた。
 昇降口近くで最後に振り返ると、遠くに、お下げの女子生徒と何事か笑っている後輩が見えた。

 校門を出てすぐの駄菓子屋の前が、空の時々使う路線バスの停留所だ。丁度バスの時間だったので、乗っていく事に決めた。
 雨の日のバスは混むのが定石だが、授業が終わったばかりだったので、予想よりも空いていた。空は一人掛けの椅子に座って、人の暖気で曇った窓から外を見ていた。
 揺られているとざあっという雨音も相俟って、とりとめのないない考えばかりが浮かぶ。バスは学校と空の家のある住宅地を一直線には結ばない。駅のある市街地を一度通って大回りに向かうので、幾分時間に余裕があるのだった。
 高校の中で翔と出くわすのは、実は珍しい。三年と一年、文化部と運動部、弁当持参と購買派、まるで噛み合う所がないので滅多に会えない。
 前に会ったのはゴールデンウィーク前だったが、その前は確か正月の辺りだった。
(少し見ない間に背も伸びてたみたいだしなあ)
 華奢な彼なりに成長しているのだと思い出して、空は微笑んだ。翔は言ってもらいたそうにしていたが、あえて無視していたのだった。
 そう言えばいま一人の幼馴染はどうしただろう。彼女は空たちの通う公立高校ではなく私立の女子高へ行ってしまったから、家こそ近いがかなり疎遠になってしまった。
 最後に会ったのも去年の夏で、それ以降は道ですれ違う事さえなかった。携帯の番号も知らないし、わざわざ家に電話するのも気が引ける。
 どうしているんだろうな、と思い直して窓の向こうに視線を投げる。雨にけぶる灰色の街並が見えた。雨のためか人通りはいつもより少ない。原色やらパステルカラーやら、とりどりの八角が見える。
 山吹の小さな傘は小学生だ。淡い色の傘は若い女性、暗い色の大きな傘はサラリーマンだろうか。丁度明ける寸前の夜空の色が、幼馴染の行った私立の制服のそれと良く似ていた。
 ――ふと、そこに。
 少年は思わず目を瞬いた。
(あれ)
 商店街を抜け、バスはちょうどカーブの中程に来ている。十五分ほどの走行時間の中、すし詰めでセイロのようになった車内が揺れて、空と反対側のほうに乗客が押し出されるように傾く。
 緩やかな曲がりを抜けた直線の、三百メートル先が住宅地の始まりだ。新興住宅地の入り口、それからその中に点在する停留所を、これからバスは回っていく。
 だが空が気に掛けたのはそんな事ではなかった。曇ったガラスを手で拭き、目を凝らす。
 見間違いかと思ったが、あいにく天体観察を趣味にする彼の視力は同世代の平均と比べなくても抜群に良い。瞬いても像はいっかな消えなかった。
 細い人影が幻のように、バスの進む見通しの良い通りの先を、傘も差さずに歩いている。
(まさか)
 肩が跳ね、膝に乗せた鞄が落ちた。
 それが真っ先に視界に飛び込んできたのは、上着の色がこれもまた、件の女子高の制服と似ていたからだ。いや、もしかしたら本当にその制服かもしれない。
 なぜなら人影は女性だった。肩の細さは言うまでもないが、髪の長さと穿いたスカート、学生鞄と靴下がそれを裏付けた。学生でもなければあんな堅い服装で、靴下を履いて歩き回る事はまずない。
 ぐんぐん近づいてくるシルエットに、確信ばかりが膨れ上がっていく。
 腰までの髪、濃紺のブレザーに濃いグレーの膝丈のプリーツスカート。特徴的なカフスは見覚えのある制服のそれだ。推測の正しさが立証される。
 その俯き加減の歩み、高いくせに存在感のない肩。いやに既視感のある後姿。
(あれは――)
 人の足は車に勝てない。あっけなくバスは歩く少女を追い抜く。
 白くやや面長な顔の中に、端正に納まった切れ長の目。すれ違う一瞬に覗きこんだ面影は記憶にある幼馴染のそれと寸分違わなかった。
「――お、降ります!」
 空は反射的にブザーを押した。住宅地入り口のバス停までほんの二十メートルほどで急ブレーキ気味に止まったために、周囲の乗客が嫌な顔をしたが無視する。
 立つ人でごった返すバスの中をかき分けて進み、定期を見せて、折り畳み傘を開けるのももどかしく駆け下りた。
 勢いよく着地する。ぱしゃんと水が跳ねて、裾に染みを作る。
 発車するバスと正反対の今来た方向に、駆けた。
 舗装された幅広の歩道には背の低い木が等間隔に植わっているが、雨宿りには使えそうもない貧弱な枝ぶりだ。遮るものなど何もなかった。
 空は少女の名前を呼んだ。

「硝!」
 正しくは硝子、という。専ら縮めて彼は呼ぶ。
 だが呼ばわっても人影は些かの反応も見せない。走りながら、彼我の距離を探る。後百五十メートルといったところか。
 靴の中に雨水が入って気持ち悪い。だんだん近づく正面から見る人影は、やはり、幼馴染の硝子だった。
 長い髪もブランド物のブレザーも頭から水を被ったかのような有様だ。目を伏せて、思考の内に没頭して、まるでこちらなど見えていないようだ。
「硝子!」
 大声は雨粒に吸われて、全く届かない。空は歩み寄り、真っ向から相手の肘を掴む。
「あ……」
 やっと気付いたのかこちらを振り仰いで、少女は丸く目を見開いた。彼女の小さな時はビー玉のようにころころと輝いた、彼にとって馴染み深い色の瞳だった。
 硝子は去年最後に会った時よりもいくらか痩せていた。尖った顎が大人びてシャープな印象を与える。目は切れ長に、唇は薄く、物憂げな雰囲気を漂わせるようになっている。
 だがその瞳は何だか疲れて、安っぽいプラスチックが年を経て劣化するのと同じく濁っているように、空には思われた。
 何だろう、と彼は訝しむ。夏に会った時と比べ、彼女を取り巻く雰囲気が確かに暗くなっている。
「そら、くん」
 ぽつんと、平坦な声が、懐かしい呼び方で空を呼んだ。ああ、返事をしてくれた、と彼は安心した。
 だが少女はまるで自分の今の身なりには無頓着な様子で、ほっとするのも束の間、少年は腹が立ってくる。ぐい、と空は腕を引き、自分の傘の中にずぶ濡れの硝子を招き入れた。
「風邪、引くだろ」
 上がった息の下で空は言い、されるがままに少女は傘の中に収まった。折り畳みで相合傘は正直狭いが、この際そんな事は言っていられない。
 指に感じるのは絞ればぽたぽたと雫の落ちそうなほど濡れた袖なのだ。分厚く吸水性に乏しい布地だと言うのに。
 彼は送ってくよ、と背を押す。早いところ乾かさないと月曜日に着られなくなってしまう。
「――なんで、濡れたの。バスぐらい使えば良かったのに」
「混んでたし」
「予報は見なかったの?」
 咎めかけて、空は自分もそのニュースを信じて傘を持ってこなかった事を思い出す。少し笑う。少女も頬を僅かに緩めた。
 肩を並べて歩くと、思ったより硝子の頭は下にあって面映い。丁度頭半分自分が上で、喋ると肩の辺りから相手の声がするのがおかしかった。
「だって、今日は降らないって言ってたから」
 まったく理由になっていないが、そういう頓珍漢なところが彼女にはあった。その突飛な行動で翔と二人、振り回されて途方に暮れたのも記憶に新しい。
もっとも硝子はわがままではなかったし、事の終わった後には謝ってくれたから、迷惑だとは思わなかったのだけれど。
知らず空は微笑み、何の気なしに尋ねる。
「でも傘を買おうとは思わなかったんだ?」
「濡れて帰りたかったの」
「こんな土砂降りなのに?」
「……うん」
 息を呑む気配の後、小さく、頷く気配があった。
「――そう」
 あえてそれを無視して、彼は歩いた。 聞かれたくない事だってあるだろう。
傘の帆布を叩く音が弱まるのを聞きつけて、ふと空を見上げる。
 僅かな晴れ間が遠くに見える。雲の陰からうっすらと太陽が見えている方だから、あれは西だ。つまり、数時間のうちに晴れると言うこと。翔の予報は正しかった。
「帰ったらちゃんとあったかくしてなよ。土日風邪で潰れるなんて悲惨だから」
「うん」
 いよいようきうきと声が弾んだ。それを敏く聞き取って、硝子が先程より柔らかな声で、
「……何かいい事あった?」
「うん。降ってたけど晴れるから」
「それが、嬉しいの?」
「観察するつもりでいたけど、雨だったろ?」
「……好きだね、空くんも」
 うん、と空が大真面目に頷けば、硝子は微笑した。彼はそれが口元だけのものだと、感覚的に気付く。
(――これはいずれ)
 ちゃんと聞かないといけないかな。
 昔から自分はそういう役回りだった。年少二人のお守り役と周りからは見られていたのだと思い出して、少年は密かに肩をすくめた。

 二人とも口数が多い方ではない。無理に話題を捻り出してもどうせ二言三言で会話が終わる。
 あまり喋らず、二人は人気のない宅地の中を抜けた。雨は止みつつあるが足元は相変らずぐしょぐしょだった。
 何故なら道は非常に緩やかな上り坂のため、二人に向かって雨が流れる形だったのだ。靴にじんわりと雨水が滲みてくる。
 二人は格子状に配置された区画を奥へ進み、右に曲がる。そうすると十分ほど歩いた先が硝子の家で、空の家はさらに一本通りを進んで左に折れたところだ。
 蒼井姓の表札が掛かった洋風の二階建てに着く。高い庭木に囲まれて、外からは邸内の様子はあまり窺えない。瀟洒な鉄の門を抜けるのは、中学以来だった。
「小母さんは?」
 しんと静まり返った一戸建てに、人の気配はない。この家に遊びに来ていた十年近く前には、硝子によく似た彼女の母親が出迎えてくれたのを思い出して、彼は首を傾げる。
 自分の家のそれより幾分立派な庭を抜けながら訊くと、
「お母さんはパート。今日は二人とも遅いらしいから」
 と帰ってきた。意外に計画的な犯行に呆れて、空は硝、と声を上げた。
「叱られなきゃ濡れてもいいって訳じゃないだろ」
「そうなんだけど。……ああ、」
 ポーチに着いて、硝子は空の傘からするりと脱け出す。乾いた石畳にととととっ、と雨滴が落ちて地図を作った。
「送ってくれてありがとう」
「ううん」
 首を横に振る。立ち去る様子がないのが不思議なのか、相手は気遣わしげに、
「……もういいよ?」
「もうちょい。硝が入るまで」
「心配性なんだから」
 硝子が玄関のドアを開けるのを、空は待つ。彼女が家の中に入る、そこまで見届けてから帰るつもりだった。
 だがいつまでも、ドアの開く音はしなかった。
「どうしたの?」
「……どうしよ」
 足元に落とした視線を上げると、硝子は鍵を持ったまま固まっていた。何を止まってるんだろう、とその手から取り上げ、鍵穴に差し込んでみる。
 回す段になって彼は目を剥いた。力を込めても、いくらも動かない。
 硝子はがちゃがちゃと鍵を回そうとして、眉を下げた。鍵穴には入るのだが、全く回らなかった。
 どこか、別の鍵なのだ。
「間違えて部室の、持って来ちゃった」
「部室の、って」
「……学校から借りたんだけど、返す時に、うちの鍵返しちゃったみたい……」
 少女は顔を青くしている。検めれば確かに、鍵には小さく「部室9」と目印が付いていた。
「スペアは? 植木鉢とか傘の下とか、ポストの中とか」
「うちは、お父さんがそういうの神経質だから」
 申し訳なさそうに硝子は肩をすくめた。と思うと顔を背けてくしゃみをする。
「まいったな……」
 今から学校に戻るという選択肢は端からない。ずぶ濡れでバスや電車に乗っては迷惑だし、他の家族が帰ってくるのを待つのも今の時期には無理がある。空は言っていた。
「じゃあ、うちおいで」
「――そんな、悪いよ」
「風邪引くから、おいで。教科書だってあと一年使うのに、濡らしっぱなしじゃまずいよ。ほら」
 体調を気遣えば辞退するに決まっていたので、あえて鞄の方を強く言った。それでも何か言おうとする前に少女の腕を引く。
「――ごめん」
「いいって」
「ごめんなさい」
 謝るところじゃないだろ、と言えば、それでもごめんなさい、と返ってきた。

「ちょっと、待っててっ」
 一度硝子を外で待たせて、彼は洗面室に走った。共働きの三人家族では、何が女の子に必要なのかまるで思いつかない。
 取りあえず彼女に玄関先でバスタオルを渡し風呂場を軽く片付けてから、硝子を家の中に招き入れた。乾燥機はこれ、タオルはここ、と風呂場に案内した後で、
「後何か要るもの、ある?」
「……ドライヤー、あるかな」
 風呂使って、と言い残して二階に上がり、空は自室でいつもの水色と青のスウェットの上下に着替えた。
 観察には付き物の星図や懐中電灯、寝袋、ビニールシートを拭くための大小のタオルを確認し終えて、溜め息をつく。頭を掻いた。
「――あー、どうしよう」
 何から聞けばいいのだろう。そもそも、どう話を持っていこう。
 話したがらない相手だと聞き出すのは難しいし、それが元来無口で、悩みを他人に聞いてもらう事をしない硝子ならなおさらだ。
 久々に会って間もなく説教なんて、なんだかおかしい。大体、自分のキャラでもない。
 親や周りからは、元気の有り余った翔と時々予想外の行動に出る硝子、二人の面倒は空が見れば安心だと思われていたが、事実は大いに違う。
 自分が思う通りに事態を収拾できた事など一度もなかった。
 翔が迷子になってあちこちを駆け回り、その内に興味を引くものを見つけた硝子までいなくなる。
 どうやって探そうと途方に暮れて一人でべそをかきかけた所に、元気に二人が戻ってくる。それがいつもの事だったのだ。
 雨の中で見た彼女の瞳は暗い虚の中を見るようだった。空恐ろしいほど淀んで濁って、二三日かそこらでああなるとは思えないほどに。
 ――今は小康状態と言えそうだけれど、まだどうなるか、分からない。それを、自分が。
「空くん?」
 大き目のトートに望遠鏡や三脚と一緒にそれらを詰め込んでいると、階下から少女の声がした。
「今行く!」
 母の部屋にあったドライヤーを持って降りる。硝子はブラウスにスカート姿でネクタイを抜いていた。ブレザーの校章やポケットの中身が台の上に置かれ、乾燥機が回っている。
「あ、ありがとう」
 だが他のものを乾燥機にかけている様子はなく、空は少し眉を寄せた。
「他の、乾かさないの?」
「そんなに濡れてないから」
 そうは見えなかったが、こちらから強く言うのも変な話だった。空はそれ以上言うのを止め、代わりにリビングに暖房を入れて、コーヒーを出す準備をした。
 暫くの後、髪を乾かして出てきた硝子は所在なさそうにソファに腰掛けた。教科書は幸い全部無事だったから、もう何もする事がない。
 テーブルを挟んだ向かいに空も座って、カップを手に取った。しばし手の内で転がして、言葉に迷う。
「……」
 一つ溜め息の後、彼は腹を決めた。結局、正攻法でいくことにした。あれこれ作戦を立てても上手くいった試しがない。
「なにか、あった?」
「え?」
 きょとんと目を見開いた彼女の、ブラウスの襟から肩にかけてが濡れて、元から薄い布地がいっそう透けているのに気付く。
 それを隠すように、髪の水気を取るためのタオルが肩に乗っていた。気持ち悪そうだな、と思う。
 着替えを用意してやればよかったと今更ながら気が付いて、空はほぞを噛んだ。こういう所が抜けていていけない。
「あ、――ううん。何も、」
「なんにもないって言わない」
 制すると硝子は小さく口角を上げた。
「――そうだね」
「どうしたの。誰かと、喧嘩でもした?」
「……うん。彼と」
 カレ、と今度は空が、いくらか面食らって復唱する番だった。硝子だって年頃の若い女の子だからそうした事は起こりうる訳なのだが、なんだかびっくりしてしまう。
「いるんだ!」
「……なんでそんな驚くの」
「いや、なんかこう、なんていうか」
「話して……なかったね。そう、付き合ってる人がいるの」
 そうか、硝子がかあ、と親のような気持ちでしみじみした空を後目に、少女は目を伏せた。
「結構うまく行ってると思ってたんだけど、最近何だか食い違うようになって。話したくてもずっと連絡が付かなくなって――」
「それはどうして? たまたまタイミングが合わないとか?」
「うん。メールしても次の日に返事が来るようなのが、二週間くらい続いてて。前は一緒に帰ったりしてたんだけど、全然会ってない」
 部活が忙しいとか、テストの時期だとかでもないし、と硝子は溜め息をついてカップの中を覗いた。空は何か言いたげなのを促す。

「彼の学校まで行ってみたの」
「――どうだった」
「……」
 答えるまで暫しの間があった。
「――他の子と、仲良さそうにして歩いてた。それ見たら、もう何にも、考えられなくなっちゃって」
「ちょっと待って。それは、兄弟とか親戚とかじゃなくて?」
 空は訊き返した。
 何せ証拠になるのは彼女の言った事だけなのだ。自分は彼氏に会ってもいなければ、その現場を見てもいない。
 疑う訳ではないけれど、見間違いという事はないのだろうか。
「違うよ。――あんな兄弟、いない」
「いない、って、そんな、確かめる前から」
「確かめなくても分かるよ。大体空くんは、妹とべたべたする?」
 逆に食ってかかられて、彼は肩を竦める。一人っ子な彼が妹と呼べそうな相手と言えば、幼馴染の当の硝子だけである。
 その彼女に、自分が。
「――しないね」
 でしょう、と硝子は肩を落とした。
「彼ならするかも知れないけど、でもやっぱりおかしいなって」
「どんな風にしてたの」
「……腕組んで、凄いニコニコして、歩いてた」
 今度ははあ……っと、体中の空気全てを吐き出すような、長い息をついてみせる。そのまま口を閉ざした硝子に、空はさすがに心配になった。
 こういう時に相手が黙ってしまうと一番まずいのだ。起こった事やそれに対してどう感じたか、どうしたいかという事、でなければ他愛もない雑談でもいいから、何か話してくれないとまずい。
 何でもいいから会話が続いてくれなければ、話す機会がなくなってしまう。それは一番避けたかった。
(翔ならなあ、すぐに喋ってくれるんだけど)
 口数が少なく、本人が喋りたがっていないのだから聞き出しづらい事この上ない。
「その彼ってさ、どんなタイプ?」
「――明るくて、優しい人よ」
 矛先を変えてみると、硝子はほっとした様子だった。楽しい人なの、と繰り返す。
 何か楽しい事でも思い出したのか、小さく笑って、
「誰とでもすぐに仲良く話せて、誰からも好かれる人。彼のそういうところが好きなの」
「じゃあ、他の女子とも結構仲いいんだ?」
「そう。ふざけて肩組んだりとか、手繋いだりとか、そういう事は当たり前だったから、気にしてなかったんだけど」
 口ではそう言いながらも、表情は暗かった。きっとその度に不安になって、嫉妬するまいと頑張って、の繰り返しだったのだろう。
 それでこんなに思いつめていたのだ。
 だから、と空は結論付けた。彼に嫌われていないか心配だったから、彼女はこんな奇行に出たのだ、と思った。
「……それで、濡れて歩いてたの?」
「うん。辛いの、忘れたくて」
 彼は苦笑する。自分の一重の細い吊り眼と下がった眉といった顔立ちのせいで、そういう表情をすると妙に年寄り臭くて周りは安心させられるらしい。
 そのまま手を伸ばして、相手の肩を叩いた。
「ばかだね」
 柔らかく言うと、硝子は心外だと言わんばかりに肩をすくめた。口を尖らせる。
「そんな事……」
「馬鹿だよ。友達で、そいつの番号知ってる子はいる?」
「――うん」
 目を丸くした少女に、柔らかく彼は微笑む。
「じゃあ、その子と一緒に会えばいい。その子には黙ってて、って協力してもらって、ちゃんと本当の事確かめなよ」
「……そっか」
 そうだよ、と空は肯定する。自信づけるように、せいぜい重々しく頷いた。
 女の子と付き合った事がないから果たして上手いアドバイスになっているか知らないが、こういうのは本人のやる気次第だ。硝子が気を取り直して、冷静に話し合えば解決するだろう。
「ひょっとしたらただの友達かも知れないだろ? 悩むのは本物の浮気だって分かってからだよ」
「……そうだね。……ありがと」 
 硝子は口を開きかけ、また閉じて、苦笑した。

 そのまま小さく何度か頷いてから、少女は顔を上げた。首を傾げる。
「――ねえ、空くんはどうするの?」
「え?」
「いつまでもお邪魔してたら、観察に行けないでしょ? 服乾いたら、わたしも出るよ」
 打って変わってやけに明るい声で言うのに、空は眉を寄せた。
 彼女は一応納得したようだけれど、未だに何かの晴れない様子だ。話題が急に変わったところも気に掛かる。
「……出るのはいいけど、どこ行くの?」
「――どこか、喫茶店でも」
 案の定微妙な間が空いた。
 急に俯いてしまって、視線を合わさずに言った少女の顔を、空は覗き込む。
「――硝?」
 目を逸らし続けてこちらを見ようとしない幼馴染に、彼は溜め息をついた。まだ何か、あるらしい。
「決めてないんだったら、一緒においで」
「空くん、わたし別に」
「いいから。ちゃんと送ってくよ」
「そうじゃなくて」
 硝、と空が強めに名前を呼ぶと、慌てたような反論は止んだ。
「手伝いが欲しいんだ」
「手伝い?」
「シート敷いて場所取ってたんだけど、濡れちゃったから。来てくれると助かるな」
 どう? と目顔で問いかける。硝子は見開いていた目を伏せ、肩からそろそろと力を抜いた。
「――わかった」

 星の観察に適当な場所は、実はそんなに多くはない。PTAや町の強い主張のために、最近ではあちこちに街灯が設置されてしまって、良さそうな所でも明る過ぎて不適な事がしばしばだからだ。
 そんな中、空が良く使うのはこの住宅地の外れの運動公園だった。随分大きい規模のもので、フリーマーケットや地域の野球大会などにも使われている。
 もちろん広い敷地の全てに明かりがないわけではない。催し物のよくある広場や音楽堂、野球用のグラウンドには定位置に大きな街灯が備え付けられて煌々と辺りを照らしている。
 だが遊歩道や散策地帯、アスレチックの遊具が点在する辺りに街灯はなく、また木が植わっていないため空が遮られる事もなく、観測に適しているのだった。
「そこ、気をつけて」
 根っこのこぶがあるから、と彼は少女に声をかける。
 何度も来ているので空は自分の庭のように知り尽くしているが、周りのものの輪郭さえやっと分かるようなこの暗闇に、初めて来た少女は戸惑っているに違いなかった。
「え? ……や、きゃ!」
 ざ、と後ろで砂が擦れる音がした。丁度緩やかな傾斜の下り坂で、雨のために足場は最悪だった。
 反射的に手を掴んだが勢いは殺せず、肩がぶつかってくる。
「大丈夫?」
「うん。ありがと」
 乾燥機が乾いたブレザーを吐き出す頃には、空はすっかり紺青に暗くなっていた。明かりは懐中電灯だけの道中はいかにも心もとなくて、手を繋ぐ。
 雨の後で虫はいない。湿った空気に葉と土の匂いが生々しい。
 何となく無言になって歩けば、道のりは短い。程なく朝に敷いた白っぽい色のシートが見えてきた。

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