ソラ→ショウコ


「参ったなあ……………」

今夜の降水確率はゼロパーセント。ラジオの予報通りの天候ならば、
綺麗な三日月とヒヤデス星団が見られる筈だったのだけれど、
予報はあくまで予報だから、外れることもある。そして今夜は見事に外れた。
土砂降りの空を見上げて肩を竦める。こんなに分厚い雨雲の影を
誰も見付けられなかったのが不思議だ。この雲は何処から現れたのだろう。
何処からともなく、突然に―――…まるで魔法みたいだ、と、そこまで考えて、
僕は一つの神話を思い出した。僕が見ようとしていた星に付けられた名前の意味、
―――『雨を降らせる女』、ヒヤデスに月が掛かると雨が降る―――…


「………神話の時代にも雨女がいたってことかな?」
「………誰が雨女なの?」

それは、今夜の雨のように突然降り掛かった。

独り言のつもりが背後から唐突に突っ込まれて、思わず背筋が仰け反った。
ギョッとして振り返った先には淡い蒼色の長い髪。湿った風にロングヘアーを
靡かせた幼馴染の女の子がいた。「………ショウコちゃん」、
呆然と呟いた僕に、ショウコちゃんはクスクスと笑い掛ける。
「驚かせちゃったかしら?」と、差していた傘を畳んで僕の隣に佇んだ。

店仕舞いをした煙草屋の軒下で、肩を並べる。雨は当分降り止みそうにない。

「ショウコちゃんは学校の帰り? …今日は遅かったんだね」
「ええ、合唱部の練習が長引いてしまったから。
ソラ君は………聞くまでもないとは思うけれど、今夜も天体観測?」
「…そのつもりだったんだけど。駄目だね、今夜は」

確かに、僕の両手にある望遠鏡や三脚を見れば僕の外出理由は一目瞭然だ。

「そこの河原で三脚を立ててたら突然降り出してさ。この通り」

びしょ濡れになったパーカーを抓んでみせると、ショウコちゃんは苦笑した。
…ああ、ちょっと反応に困るようなこと言っちゃったかな。僕はただ、
笑い飛ばしてくれればそれで良かったんだけれど、彼女の性格からして
そんな反応を返してくるわけがないのに。ほんの少し、後悔した。
不意に気まずい沈黙が落ちる。―――ざあざあと降り頻る雨の音だけがやけにうるさかった。

雨脚は強くなる一方だ。雨宿りをしてやり過ごす筈が、逆に帰るタイミングを
逃してしまったように思える。このままじゃ一晩ここで過ごす羽目になりそうだ。
………いや、それは良い。良いわけじゃないけれどそれは道理だ。傘がないんだから。
隣に目を遣って、僕はふと―――…疑問に思った。彼女は、傘を持っている。

「……………あの、ショウコちゃん」
「何?ソラ君」

呼び掛けに応えて、顔を上げた彼女はここに留まる理由なんてないんだ。


「気を遣わなくても良いよ。僕は………降りが弱くなったら、帰るから。
これ以上遅くなるとご両親も心配するだろうし、…早く帰った方が」

こういう時って、どう言えば良いんだろうな。
強く言うと追い払っているみたいだし、弱く言うと余計気を遣わせそうだし、
上手い言い方が思い付かない。しどろもどろになる僕を眺め見る彼女は
怖い位に無表情だ。いや、それがショウコちゃんの普段の顔なんだって、
分かってはいるけれど。その硝子玉みたいな瞳に貫かれる。感情の見えない、

「……………ソラ君」

曇り硝子の瞳が僕の眼を覗き込んだ。射抜かれた僕はその場に立ち竦んでしまう。
…こうして改めてまじまじと見ると、ショウコちゃんは物凄く………綺麗だ。
神話をモチーフにした中世の彫刻のように整った顔立ちをしている。
スッと通った鼻筋と小さくて形の良い唇、サラサラとした長い髪と硝子玉の双眸。
―――神話、という単語が頭を過ぎって、再びあの星が思い起こされる。

「良かったら………これ」
「これ、って………」
「傘。…私ので良ければ、使って」

雨降りヒヤデス。

にっこりと、此方の赤面を誘うような微笑と共に差し出されたのは、傘。
ショウコちゃんの傘だった。パールブルーの生地にワンポイントで
マーガレットの絵が入っている女物の傘は、男の僕が使うには多少抵抗がある。
けれども、僕がそれを受け取るのを躊躇したのはそれ以上に、
彼女の行動に疑問を覚えたからだ。彼女は笑って傘を渡そうとするけれど、

「………仮に僕がこの傘を使ったら、ショウコちゃんはどうするの?」


この場合、考えられるパターンは二つだ。
一つ、彼女の鞄の中に折り畳み傘が入っているなどで他に雨を防ぐ手段がある場合。
もう一つが、僕に唯一の雨除けを渡して自分自身は濡れて帰るという場合。


「………私、今日は濡れて帰りたい気分なの」

どうやら、後者のパターンだったらしい。僕は、大仰な溜息を吐いてしまった。
…どうして彼女は、こうも自虐的な行動に走ろうとするのだろう。
「…また、『彼』のこと?」―――無意識の内に、訊ねる声に棘が入ってしまった。
「………放っておいて」―――彼女は、その棘の直撃を避けるように俯く。
彼女は、それ以上何も言わなかった。そしてまた雨音だけが、辺りを支配する。

「………ショウコちゃん。僕は………濡れて帰りたいとか放っておいてとか言われて、
『はい、分かりました』って頷く程無神経な人間に見えるのかな」

ずっとそうしているのも気まずくて、僕の方から切り出した。彼女がようやくその顔を上げる。

「………そ、ういうわけじゃ………」
「だったら、僕がどうすると思って…僕にどうしてほしくて、そう言ったんだい?」
「ソラ君、私は」
「傷付いてるなら縋れば良いし、救われたいなら頼れば良いんだ。
そうやって独りで抱え込んでないで、『彼』に固執なんかしていないで!
自分で自分の心を壊すような真似をしないで!!泣くのも堪えてなんかいないで!!!」

………気が付いたら僕は、いきり立っていた。ひどく―――…腹が立っていた。
胸の内だけで涙を流すショウコちゃんにも、ショウコちゃんを捨てた『彼』にも、
彼女に何も出来ない自分にも。何もかもに、怒りを覚えた。
普段、怒ることなんて、滅多にないのに。抑え切れない感情が指の先まで迸って、震えている。
それだけ、本気なんだ。…何が、なんて分かっていないんだろう。君は。
僕とは違う意味で震えているその手を取って、僕は彼女の眼を見た。
驚愕と怯えの入り混じった瞳は、明らかに僕を拒んでいる。………ああ、なんで、

「………ショウコちゃん」

僕じゃ、駄目なんだろうな。


「僕は、君を捨てるなんてことはしない」
「……………止めて、ソラ君」
「止めろって言われて、君は………『彼』を想うことを止められる?」

それと一緒だよ。…言外の呟きを読み取って、ハッとなった彼女を抱き締めた。


「僕は、君が好きだよ」


腕の中で凍り付いた彼女の額にそっと口付ける。ショウコちゃんは、何もしなかった。
それを良いことにもう一度、その頬にキスをした。今度はびくりと肩を揺らした。
あまりの驚きに身動きが取れなかっただけなんだろう。………分かってる、そんなことは。
次に唇にキスをしようとしたら、案の定、渾身の力で突き飛ばされたから。


「…ッ、止めて………!!!」

…って。女の子とは思えない位強い力で突き飛ばされて、僕は尻餅を付いた。
反射的に瞑った目を開いた時、彼女はもうこの場から駆け出していた。
一瞬だけ、振り返ったその眼には涙が浮かんでいて、後悔する。
………分かっていた、筈なのに。彼女が『彼』を想うことを止められないのは、
僕が彼女を想う気持ちと同じなんだって、この口で言った筈なのに。

「………何、やってるんだろうな。僕は………」

無闇な感情の押し付けで、彼女を余計に泣かせてしまったみたいだ。


不運にも、僕が尻餅を付いた先には水溜りがあった。
下から染みてくる雨水も、上から降り注ぐ雨水も、冷たい。
降り止む気配のない空を見上げて、僕は、それでも彼女のことを想った。
………ヒヤデスみたいに、ひっそりと泣き濡れる彼女の心の雨が晴れる日を祈って、
自分の頬を流れる雫の塩辛さに、また一つ大きな溜息を吐きながら。

「参ったなあ………」


―――せめて星の出ている夜ならば、願いの一つも掛けられるのに。

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