スマイル×かごめ
――遠雷の轟きが聴こえる。
地平の果てまで続く樹海の彼方に建つ、石造りの冷たい城。
絹の寝台の中、お気に入りのギャンブラーZのぬいぐるみを抱え、胎児のような姿勢でまどろんでいた。
そんなスマイルの薄い眠りが阻まれたのは、窓外から届く、重苦しい遠雷の轟音のせい。
嵐や強風は、このメルヘン王国では日常茶飯事だ。
人間の住処ほどに安定していない次元の世界だから、自然の脅威は比較にならない。
だからこそ吸血鬼や狼人間といった、遺伝子的にアンバランスな存在が
多く生まれて息づいているのかもしれない。
――自分みたいな、包帯とドウランなしには自分の輪郭さえ取り戻せない、透明人間、という種族も。
掛け布団を引き上げて、大好きなヒーローの人形を掻き抱き、スマイルはきつく目を閉じる。
それでも、潮騒めいたどよめきは聞こえ続ける。
獣の叫びにも似た強風によって、厚く下ろした緞帳の向こうで硝子窓がびりびりと震え、
城壁に大粒の雨滴の叩きつける音が絶えない。
そしてーーそれらの轟音に混じって、聴こえてくる。
密やかに押し殺された、しかしだからこそ艶かしい……女の、喘ぎ声が。
聴こえてくる。石造りの壁を通り越して。
隣室、ユーリの寝所からーーさながら、けっして耳を傾けてはいけない悪魔の囁きのように。
執拗に、とめどなく、淫らがましく。
「……カゴメちゃん」
悪夢を避けるようにきつくつぶった瞳を薄く開けた。
スマイルは暗闇の中せつなげに眉宇を寄せ、いまユーリに抱かれているであろう少女の名を呼ぶ。
「カゴメ、ちゃん……」
ーー最初にーー幾度目かのポップンパーティで「彼女」を見かけたとき、そのあまりの果敢無さに、一瞬で、心惹かれた。
濡れ色の黒髪、白磁の肌。
たおやかで華奢な身体つきと、それに何より、その瞳。
長く密な睫に覆われた、その黒目がちの双眸といつか視線が交錯したとき、
全身の血が沸騰するほどに狼狽したのを覚えている。
彼女の光彩はあまりに美しく、恐ろしいほどに澄み渡り透き通っていて、
まるで穢れない湖の底を覗くようだったから。
爆発しそうな鼓動を抱え、うつむいてすぐに眼差しを反らした。
怖かったのだ、私意や我利や、その他さまざまの薄汚い思惑を抱える自分の心さえ、
美しい彼女には容易に見透かされそうで。
――だが。
その後、スマイルはそのときの自身の怯えを、血を吐く思いで後悔することになる。
自分が俯き黙している合間に、カゴメの視線はユーリへと吸い寄せられていた。
世界で一番美しい吸血鬼は、何を前にしても臆することを知らぬ。
咲き誇る大輪の薔薇のように彼は常に常に完璧で完全で、尊大なまでに高貴で美麗で……
……誰であれ、惹かれないわけがないのだ、ユーリに。
誰であれ、視線を交わすだけで豪奢で優麗な、彼の虜になる。スマイルはそれを知っていたのに。
年頃の女ならば……尚の事。
いままで何人の女がユーリに狂って堕ちていったか……もはや、数えるのも面倒なほどなのだから。
危険だと……知っていたはずなのに。
手をこまねいて、指を銜えて押し黙っている場合ではないと……
誰よりも、自分が一番良く知っていたのに!
カゴメはユーリをまっすぐに見つめた。
ユーリもまた、その視線から目を反らさなかった。
介入、できなかった。
二人は視線を交わすだけで、これ以上ないほど強く強く結びつき、
そこに怯えいじけた卑屈な透明人間の入る余地なんて、露ほどにもなかったのだから。
見つめあう二人を凝視しながら、スマイルは一人、自らの恋の終わりを悟った。
打ち明けることはおろか、自覚するいとまもなかった、あまりにも果敢無い片恋の終焉を。
今、ユーリはどのようにカゴメを抱いているのだろう。
すっかりと冴えた意識をもてあまし、寝台に身を起こしてスマイルはぼんやりとそう考える。
二人が公認の恋人同士になってから、カゴメを城内に引き入れることは珍しくなかった。
そう言った夜には、スマイルは決まって何らかの野暮用を自ら作り出し、
DEUILのメンバーが兼用で棲んでいるこの城に帰るのを避けていた。
だが、今夜はこの嵐……どこにも、逃げ場はなかった。
風と雨の音は相変わらず耳を聾するほど強いのに、かすれ聴こえてくる喘ぎもまた絶えることがない。
甘くまとわりつくような熱い吐息、時折ユーリの名を呼ぶ潜められた声。
……かさねあわされた二人の間で奏でられる、
淫猥で粘着質な水音さえ聞こえてくるようで……たまらない。
ああ、本当に、今ユーリはどのように、あの儚げな美しい少女を蹂躙しているのか。
玲瓏な歌を紡ぎだす唇で、思うさまあの白い肌に赤い華を生み出し散らしているのか。
ユーリの手は男性にしてはほっそりと美しいが、腕力は相当なもの、
カゴメの華奢な体を押さえつけることは容易い。
どんな卑猥なポーズだって強いることは可能だ。
……閨の中、乱れたカゴメはどんな顔を見せるのだろう。
吸血鬼の残酷なまでに的確な愛撫に抗うだろうか、悦ぶだろうか。
あの澄んだ瞳は、快楽に潤むだろうか、泣き出すだろうか。
気づけばそんな淫らがましい夢想をはじめている。
浅ましいことだと理性が声を上げるが、嫉妬に焼かれた神経の暴走は止まらない。
体中に集まる熱も、もうなだめて眠るのは不可能なほどに高まっている。
「……情けないなぁ、もう」
自嘲気味な薄笑を口元に貼り付け、寝乱れた前髪をくしゃりと掻き回した。
他人の情事を、それも長年を共にしてきた仲間のソレを想像して、
どうしようもないくらい欲情するなんて――
本当に、なんて情けない。
スマイルはよろよろと起き上がり、夜着をくつろげる。
青ざめた肌膚はいくら筋肉を鍛え上げて引き締めても、
やはりどうしようもなく不健康そうな印象が漂って……たまらない。
いつもは包帯で覆い隠して見ないようにしているが、
こうしてまじまじ見つめてしまうと本当にぞっとする。
両足の付け根に生える恥毛すら、色素は髪の色素と酷似した奇怪な青である。
どこまでも自分は不恰好だと、嘆息しながらそれでもスマイルは股間のモノに指を滑らす。
「っ」
小さな喘ぎが喉を突いた。
自慰には慣れている。人間に換算すればそれなりに年頃の男だし、
素肌をみせることがためらわれ、どんな女とも――どんな熱狂的なファンの女と、でも――
臥所を交わしたことは、一度たりとてなかったから。
手の内で己のそれはゆるゆると硬度を増していく。
カゴメの喘ぎを聞いて、どれだけ自分が昂ぶっていたかが理解でき、
スマイルの自己嫌悪と欲情はいや増しに増した。
眉を顰めながら無心に指を動かした。
薄い蒼い茂みのただなかを探って根元から頂点へ掌を滑らす。
亀頭を指の腹で擦れば粘性の感触が生まれ出でる。
ぬるりと沸き出でてくる先走りの分泌液はごく僅かなのに、漂うのは随分と饐えた匂いだ。
「カゴメ、ちゃん」
自身の性器を愛撫しながら、呼ぶ、乞う、けして答えてはくれぬ美しい少女の名を。
答えるように壁の向こう、泣きじゃくるようなカゴメの声音が高く響いた。
「っ、ァ、ユーリ……
駄目……ッ!」
常の歌声とはあまりにかけ離れた艶っぽいその声が、スマイルの背筋に電流を流す。
「いや……っ、もう、無理……っ、あっ、ぁ……!」
ところどころ、しゃくりあげて声音は断ち切れる。
何が『駄目』なのか何が『無理』なのか。
夢想するだけではしたなく性器は膨らみ、全身を巡る血流が沸騰しそうだ。
心拍が高鳴る。鼓動が、どくどくと五月蝿い。
(だめ、こんな)
スマイルは愁眉のまま瞳を閉じた。
闇の只中、閃くのはカゴメの肢体。
若く瑞々しい、少女のカラダ。
(妄想で、彼女を穢すなんて、そんな)
理性は激しく警鐘を鳴らすが、昂ぶりすぎた身体はその警告を聞くこともない。
性器を玩弄する指を忙しくしながら、スマイルはなおも夢想を深める。
……絹の寝台のうえ、横たわるカゴメの肌は蝋めいた白さ。
が、体の各部は紅でも差したかのようにほの赤い。殊に上気しているのは頬だ。
双眸はいまにも涙を滴らせそうなほどに潤み、汗によって湿った額に頬に黒髪が張り付く。
丹唇は酸素を据えない哀れな魚のように、喘ぎ、悩ましく開いて。
抱きしめれば折れそうなほどの痩躯、娘らしい円やかさを有しているのは胸部の乳房。
手のひらで容易に揉みしだけるほどの大きさながら、先端で堅くなった頂は、
カゴメの丹唇とまるで同じ薄紅で、それがスマイルをさらに狂わす。
「いっ……や……
あっ……そんな激しく……っ!」
壁越しに聞こえる声が悩ましく耳朶から染み入って、
このどうしようもない欲望を高めていく。
夢想の只中、スマイルはいまだ未成熟な乳房を思い切り掴み上げて揉みしだいた。
カゴメは喉を鳴らして喘ぐ。
柳眉を寄せたその顔立ちは、もはや穢れない少女のものでなく、
ただケモノの情動と享楽に咽ぶ淫売女の表情を滲ませている。
これ以上なく、興奮していた。
全身をかけるのは息さえ乱すほどの激しい恍惚感と、それを引き立てる薄暗い背徳感。
仲間の恋人にこんなこと、こんな猥雑な行為をしているというだけで、
死にそうな自己嫌悪が全身を襲って止まないのに……
その、罪深さに、確かに陶酔している、自分も、いて――
「……ッ!」
いやだいやだいやだいやだこんなの。
間違ってる間違ってる、やめなきゃいますぐやめなきゃますます自分が嫌いになる。
ユーリに合わせる顔もないくらいに自分のことが嫌いになる嫌いになる絶対になるそうなる、
……わかっている!
なのに汚らわしい手淫の手は止まらない。脳裏に閃く妄想も。
あの端然としたカゴメが、脚を開く様はどれほど淫靡だろう。
普段無表情に徹した彼女の寝乱れたさまは、どんなに……
まっ白い内腿の合間、淫らに口を開いた陰部はきっと熟れた石榴ほどの赤に違いない。
ほかの肌膚がまっ白いからこそ、ソコはきっと痛々しいほどの赤さで。
血膿色の陰部で、きっとカゴメは深くくわえ込むのだ、ユーリのたぎった性器を。
きっと最初は破瓜の痛みに咽びながらも、徐々に徐々に享楽に溺れて。染まって。
――泣きながら鳴きながら淫らに堕ちて。
「なんで」
震える指先で先端を探る。
ぐりぐりと指の腹を押し付けると、甘い痺れが腰部を襲った。
立てないほどの疼きが膝を震わせる。
冷たい壁に開いた片手を突きながら、スマイルは襲い来る享楽の波に耐えた。
「なんで、僕じゃない」
うめきながらスマイルは嘆いた。
先走りの蜜は、手淫を繰り返す掌のなかでいやらしく粘る。
ぐちゃりぐちゃりと、スマイルの欲情のすべてはあふれて漏れて滴り、
とめどなくはしたなく鳴っている。
「なんで、僕じゃない……っ!」
……そして、高まった劣情は臨界を迎える。
腰部から恐ろしいほどの享楽がこみ上げ、脊髄を伝って脳裏に至った。
ぞぅっ、と。
全身の体毛が総毛立つような感覚が襲いくる。
毛穴のすべてが開くようなソレは怖気に似ていたが、まぎれもなく強すぎる快楽だった。
刹那、閉じた目の奥、閉ざされた視界の彼方に影が閃く。
いとしくていとしくて仕方ない、ただ一人の少女の、はかなげな微笑が……
(カゴメちゃん……!)
「……――っ!」
感電したような狂おしい衝撃に翻弄され、スマイルはその場に崩れ落ちる。堪えきれず、膝をついた。
瞬間、心臓が一拍、どくん、と鳴った。
途端――張り詰めた陰茎から塞き止めていたものが、迸った。
白濁は性器を掴んでいた手指を汚し、掌を穢し、冷えた壁に一息にぶちまけられた。
視界が白く明滅する。
頭をひどく打ちつけたように、頭蓋そのものが軋みながら激しく痛んだ。
荒れ狂う心拍がおさまらない。
スマイルは震えながらもがきながら、強すぎる快楽の余波に酔う。
……やがて、乱れた息の整うころ、場には生臭い臭気だけが残った。
ぶちまけられた精液から漂う匂いはやはり饐えていて、
掌はわずかに動かすだけで粘って淫らに鳴った。
萎えた陰茎に視線を落とすと、自嘲の思いが胸中を苦く犯した。
快感が強烈だったぶん、それを過ぎてしまうと自分のしたことが空しくて空しくて仕方ない。
横恋慕の果てにこのような愚考、なんて……なんて醜い。
「なんで……なんで、だよ」
萎えた一物から手を離す。
欲情の片鱗が、手指の合間を伝って床に落下した。ぱたぱた、と。滴る。
「なんで、僕じゃないの……」
ぱたぱた、と、滴る。
スマイルの目縁を越え、頬を伝い、流れ落ちる涙も、また。
顎から垂れて、床に落ち……
吐き出した精液といっしょくたに、床を際限なく穢す。
「なんで、僕じゃないの……っ!」
壁に額を押し付け、スマイルはうめいた。
隣室の物音は一層激しさを増し、カゴメの嬌声はいまや激情に任せた鳴き声に近い。
けもののようなそれを聞きながら、スマイルは泣いた。
泣くことしかできなかった。
「カゴメ……カゴメちゃ……ッ」
すすり泣きながら壁に爪を立てる。
そんなことをしたってこの思いは届くわけもないのだ、と、
痛いほど理解していたけれども。
そうせずにはいられなかった。
「カゴメちゃん」
くりかえし、スマイルは呼ぶ。
己の愛する、たった一人の少女の名を。
この慕情に偽りはないのだと。
あなたの代わりはいないのだと。
届かなくても、伝わらなくても、あなたがすでにユーリのものであっても、
自分の思いはとまらないのだと。
確認するかのように、強く。
「カゴメちゃん……!」
叫んで、スマイルはその場に泣き崩れた。
壁は無常に冷たく、隣室の少女の嬌声は一層甘く激しく悩ましく。
仲間である吸血鬼は、この胸を焦がす煩悶に何も気づくことはなく。
なにもはじまらない。
なにもかも終わらない。
臆病で汚らしい自分は、永遠にこの横恋慕の袋小路に閉じ込められて、
どこにも出て行けないし、どこにも行き場なんてないのだ。
それを悟って、スマイルは泣き続ける。
幼児のように、全身を震わせて泣き続ける。
――嵐が……止まない。
−了−